
人それぞれに祈りのスタイルがあることだらう。
私自身は無宗教の有神論者で、西洋の一神教的な考え方より、
八百万な考え方が肌に馴染む、どこにでもいそうな日本人だけど、
私の祈りの様式を考えた時に、実は根本にあるのはキリスト教的『原罪主義』なのだと思う。
最近はそうでもないけど、多感なティーンの頃は特にその意識が強かったように思う。祈るっていうか許しを乞う…みたいな。
私はどうやら十字架系のひとのようなので、
旧約聖書読みたいな~とか、近所の教会覗いてみたいな~という気持ちはますます高まっているのだが、でも矢張り、神社で木や水や光に触れ合うほうが好きなのだ。
やっぱり神社ではきらきらの光を感じるのだよ。
~ヽ(´・ω・`)ノ
でもね、巴里のノートルダム寺院とミラノのドゥオモ(どちらも聖母マリアの教会だね)に行った時に感じた、人々の『祈る』行為の美しさ・・・、神社やお寺にお参りに行くのとはまた違うんだよな、キリリとした何ともいえない美しさ…。あれはちょっと言葉に出来ないなあ、祈ることによって浄化されてゆく?うーん、本当に言葉足らずでごめんあそばせ。あの時感じた静謐な気持ちは一生忘れられぬ。
まあ、根底はキリスト教的(唯一神的)祈りのスタイルなのかもしれないけど~、つまるところ輪廻転生を信じる私、八百万が好きな私は、輪廻転生を否定する&絶対神的な考え方のキリスト教には馴染まないんだろうなあと思ふのだ。(懐かしさは感じても)
ゆえにクリスチャンには今更なれないぞ、と。でも首からいつもメダイを下げてたりするんだけど。笑 自由な信仰を!
宗教と名の付いたものにはまったく注意を払わない、私は世界中のありとあらゆる神や目に見えざるものを敬う。
それが自然に出来るのって日本だからこそなんだなあと思うよ。
キリストもマリア様もミカエルもガブリエルもラファエルもウリエルも伊邪那岐も伊邪那美も天照も…色んな聖なる存在があっていいなと思うのだつた。
そういう聖なるモノに何の仲介も入れず、一対一で向き合う。
日々をきちんと生きる、ということ、それが祈りになる。
・・・ような気がするの。